アールブリュットの商業化について
Marie Suzuki, Daku-Daku-Daku (Murky-Murky-Murky), 2010
I.アールブリュット アールブリュットという言葉は、1945年頃、フランスの美術家デュビュフェによって導
入された言葉であり、それは「美術界の本流から外れた目立ない社会の辺縁で、場合によっ ては偏執的人物により、自発的衝動に由来する形で、想像と幻想に動かされて創造された 絵画、ドローイングなどの様々な芸術表現1」を指し示すものであった。
アールブリュットの作者はふつう社会の本流からは外れたところに位置する独学の芸術 家であり、その作品では、特異で辺縁的なテーマについて、型にはまらない視点から極端 に主観的な表現がなされ、素材という点でも手当たり次第あらゆる素材が用いられる。そ のため、アールブリュットの作品はテーマ、様式、テクニック、そして素材のいずれを とっても特異な独自性を示し、アールブリュットの作者相互の間に共通する点を見いだす ことはほとんどできない。つまり、アールブリュットという言葉は、確立された芸術団体 や芸術機関、すなわち美術界の本流から外れて社会の辺縁で活動する、社会の主流から取 り残された人々の、むき出しの芸術表現を指して用いられるものである。
アールブリュットの作品は本来、最も隠ぺいされた、しかし鮮烈な感覚を宿す自発的で なま
内的な対話から結実する生の果実である。それは社会の関心を喚起することや、経済的利
益を得ようとする意図とは全く関係なく、ただ自身を表現するためにのみ作り出されたも のである。そのため、そうした作品はたいていの場合作者の死後に初めて発見され、作者 の知らないところで、場合によっては作者の同意を得ることなく、世に広まるものであ る。
II. アールブリュットとアウトサイダーアート市場
アールブリュットは我々を社会の辺縁へ、そして心の辺縁へと導き、その特異な存在性 において我々に強い印象をもたらすものである。アールブリュットは我々を慣れ親しんだ ものの外部へと連れ出し、そこから、我々の社会を、そして我々自身を見ることを可能に してくれる。そうした視点からすれば、アールブリュット作品に市場的価値を見ようとす ることに疑問がもたれるのは当然であろう。しかし、1980年代以降、この芸術様式を取
り巻く市場の環境は大きく変化した。特に、芸術市場の主流をなす西ヨーロッパと北米に おいて、これらの作品に対する関心が高まり、経済的利益と結びつく形で市場が成熟して きているのである。こうした状況の中で、元来アールブリュットというフランス語の英語
訳として導入されたアウトサイダーアートという英語は、次第に広い意味をもつようにな り、アールブリュットに関する商業化傾向の高まりを示す語としても使われるようになっ た。美術史家のミッシェル・テヴォスは次のように言っている。
アールブリュットの作家は、その定義からして、アート・マーケットの外部に とどまり、何らかの仕方で、彼らの作品の市場的な評価を拒否し、美術市場シ ステムに統合されることを拒むべきものである。しかし、彼らは自分の作品が 彼らのコントロールから離れていくのを避けることができないだろう。遅かれ 早かれ、彼らの作品は集約的かつ大規模な市場経済の原理の中にとらえられず にはいないだろう。このことは、歪曲と倒錯、そして社会への再取り込みのリ スクを孕むものである。アウトサイダーアートと呼ばれているものによって占 められている領域は、いまや次第に商業的なものとなりつつあるのだ。2
アウトサイダーアートは、いまや、アールブリュットの逆説が現れる場となっている。 アールブリュット作品は社会の外縁に属するものであってこそ、究極の辺縁性を表現する。 しかし、アウトサイダーアート市場はアールブリュットを言わば濫用し、洒落たギャラリー 向けの作品、商業的アートフェア向けの作品と同列のものとし、収集家のリビングやダイ ニングルームを飾る単なる作品へと替えてしまう。この市場は、資本論理の社会の内部に 外部を取り込むことで、アールブリュットをその本質的特徴から引き離し、空虚な市場商 品にしてしまうのだ。
III.アートテラピー、アートを通しての社会への統合
日本社会はアールブリュットの受容という点で近年世界的注目を集めている場所の一つ であるが、日本では、この微妙な弱さを孕む芸術様式が芸術市場で売買されることに対し て一線が引かれる傾向があった。結果として日本にはこれまで、明確なアウトサイダーアー ト市場は形成されてこなかった。しかし、日本では、精神障害をもつ人々に対する福祉施 設が、彼らを社会へと統合する活動の一環として芸術(アート)活動を用いてきた歴史が ある。そうした活動は1970年代のはじめに活発になり、次第に社会の中に浸透する形で
広がってきた。そして、そうした施設で制作された作品の中に、今日、欧米のアウトサイ ダーアート市場においてアートブリュットとしての評価を得ているものがあるのである。 非平等性(あるものが他のものより優れている)原理に基礎を置く芸術領野とは異なり、
福祉のシステムでは、平等性(権利の平等な分布)原理にこそ基礎が置かれている。そう いう意味では、日本では、精神障害者によって創られた作品はむしろみな同等にアールブ リュットであるとも言える。日本ではアールブリュット作品は福祉分野と深い結びつきを もっているのである。
例えば、滋賀県にあるやまなみ工房は精神障害者にとって最も重要なこの種の施設の一 つである。この工房の施設長の山下完和および工房のスタッフは、そこに集う人々が創作 活動に関わることができるよう、日々、様々な形で支援を続けている。彼らが第一に目指 しているのは、創り手がその活動を通じて幸福感を得られることであり、作り出された作 品のアートとしての価値を引き出すことや、それをアールブリュットとして取り上げるこ とに焦点を当てているわけではない。にもかかわらず、やまなみ工房で作り出された作品 の多くが、欧米のアウトサイダーアート市場においてアールブリュットとしての評価を得 ているのである。
もちろん、日本におけるアールブリュットに対する姿勢に何か確立した形があるわけで はない。福祉の制度と芸術領域が今後どのように作用し合っていくかについてはさらに観 察していく必要があるだろう。しかし、日本におけるアールブリュットの受容においては、 社会辺縁の作者たちの作品の市場的価値にではなく、彼らの社会への統合に焦点を当てる ことで、市場原理を越える形で周辺性について再考する道を開いていることは、強調して おく価値があるだろう。芸術療法が持つ二つの側面、すなわち創作過程がもつ治療的側面 と芸術表現としての作品の分析の両面が、アートブリュットというこの特異な芸術様式に 対する際には、尊重されなければならないのである。芸術療法の実践は、我々に、辺縁性 に対する自身の姿勢について問いを立てさせる力を持っている。なぜなら、芸術療法の実
戦は、個人の中で、いやむしろ社会の意識の中で抑圧され、辺縁へと押しやられているも なま
のに対し、アウトサイダーの 生 の創作を介して、正しく向き合う機会を与えてくれるから である。
IV.おわりに 人間の創造性の生の表現としてのアールブリュットは、人間であるとはどういうことか
なま についての問いを投げかける。そしてまたそれは、社会の辺縁からの生の表現を指し示す
ものであるだけに、社会的な視点では、グローバルな資本主義社会とは何かという点につ いて問いを突きつけるものでもある。アールブリュットと福祉との関わり、さらにはこの
なま
関わりの中での芸術療法の役割という問題は、さらなる議論に委ねられるべきものであろ う。しかし、我々の自己、他者、そして我々が生きる社会に対する我々の認識について重 要な問いを喚起するこの特異な芸術が、本来の深い問いから引き離され、単なる商業作品 としてのみ扱われるべきでないことは確かであろう。この点で、日本におけるアールブ リュットのあり方は、この特異な芸術表現が治療とどのような関わりをもちうるのかとい う問いとの関連で、さまざまな可能性を秘めており、今後の発展と展開に興味がもたれる ところである。